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稽古場|日本マイム研究所:佐々木博康
マイムと舞踏 佐々木博康 談
及川廣信から最初に習ったマイムとはどんなものですか?
チャップリンのマイムとかギリシャ時代のコメディア・デラルテのようなものが従来のパントマイムだったんですけれど、そういうのとはちょっと違って、及川先生と私の師匠でもあり、ジャン=ルイ・バローやマルセル・マルソーも教えたエティエンヌ・ドゥクルーという先生の手法で、身体を分解するという。頭だけとか胸だけとか腰だけとか、色々それを捻ったりと、各部やるんですね。
マイムとパントマイムというのは違いまして、パントマイムというのはやっぱり顔の表情と手振りでやる芸ですよね。だけどドゥクルー先生のマイムというのは、根本的に一番重要なのはこの部分(胴体)なんですよね。それから腕、それから顔っていう。だから顔の表情はあんまり使わないんですよね。だから従来のパントマイムとは全然違ったんですよね。
佐々木さんの稽古で行なっている「花」について教えてください。
「花」はごっちゃになってるんですね。最初に歩いて来るときはマイムなんですよ。で、パッて、どこからかクッて見て、それに身体が反応して、サーッとこう取るんですね。だけど、そこから先は花になっちゃうという。それは大野(一雄)先生に習った感じ。もう、取った瞬間にこの辺に花が植わっている、背中にも脚にも。で、スーッとなったらもう花になって、スーッとこう歩いて行くんですね。
だからその辺が、従来のパントマイム+舞踏が入っちゃってるんですよ、僕の場合のダンスって。最初はもう、舞踏じゃなくてモダンダンスと言っていたね、習いに行った時は。舞踏なんて言葉は、後から土方(巽)さんがつけたんだろうと思うわけです。モダンダンスが好きだったんですよ。
大野一雄との出会いは?
日本マイム・スタジオ(現日本マイム研究所)というのができたのは、1960年なんですね。それはフランスから帰られた及川先生がやっておられたんですけれど、そこに習いにいったんですね。それで1・2年してからイイノホールができましてね、そこで第1回マイム公演というのをやったんですよ。その時にカフカの「審判」というのをやって、その時(大野)慶人さんがね、ヨーゼフ・Kっていう主人公になって、ガーッてこう(腕を)上げたり、ちょっと我々がやっているのと違うのをやったから、どうしてそういうのをするのって言ったら、実はお父さんがモダンダンスの先生だから、って。じゃあ!と言って、すぐ連れて行ってもらって、習い始めた。
土方 巽と大野一雄の違いは?
ふたりとも感覚的に動くんですけどね、土方さんのは稽古見ていてもね、なんかこう、今までに一生涯やったことない手の位置とか、カーッとやれって言うんですよね。それだから、なんだかグロテスクになっちゃうのね、最初は。でも訓練されると、やっぱり土方さんとか、綺麗ですよね、身体も細いし、よく動くし。もともとちゃんとバレエやっていたでしょうからね。
大野先生というのは、あんまりそれほど動かない。逆に動かないで、カーッ…とこう、内面のこうやるでしょ。それがすごく、役者やる人とかマイムやる人とかにプラスになった。
土方さんとやったのは「あんま」ですか。「あんま」とか、いくつか出ましたけどね。ちょっとやっぱり、土方さんもそうだけど、石になったり、もうあんまり動けないやつなんかは物体として置いているとか、そんな感じね。でもそれが、役に立つんですよね。カーッ…てやってるのが、動くより難しいんですよね、存在感出すって。それができるようになれば、大したもんだ。
佐々木博康
1959年~1965年及川廣信にマイムを学ぶ。その間大野一雄に舞踏(当時はモダンダンスと云われていた)を3年間学ぶ。その頃土方巽の暗黒舞踏のメンバーとして舞台公演に参加。1965年パリでマイム界の巨匠エティアンヌ・ドゥクル-(ジャン・ルイ・バロー、マルセル・マルソーの師匠)に肉体分析によるコーポレルマイムを学ぶ。更にベラ・レーヌにスタニスラフスキー・システムによるリアリズムマイムを学ぶ。
帰国後、日本マイム研究所所長となり、日本でのマイムの普及と後進の育成に努め、毎年の劇場公演とアトリエ公演(年3~4回)を行っている。
1993~2009年にフランスを中心にヨ-ロッパ各国や韓国で公演を行う。
マイム歴62年 日本マイム界の第一人者。
稽古場
出演 佐々木博康
稽古シーン出演 池田郁子 安藤繭子 水澤良平 久保田響介 西山陽子
撮影・編集 飯名尚人
協力 日本マイム研究所
Special thanks 佐々木美奈