大野一雄は1906年10月27日、函館の弁天町に生まれた。生家は北洋を漁場にする網元で、父はロシア語を話し、冬はカムチャッカまで漁に出た。母は西洋料理を得意とし、琴は六段の名手、オルガンも弾いた。母の弾くオルガンで兄弟たちは「庭の千草」を歌ったという。中学に入り、まもなく一雄は母方の秋田の親戚白石家にあずけられる。白石家には子供がいなかった。一雄は旧制大館中学では、陸上部に所属、400メートルの秋田県記録を更新した。
1926年、日本体育会体操学校(現日本体育大学)に入学。在学中、貧乏学生だった一雄は、寄宿舎の寮長に伴われ、帝国劇場の三階席からラ・アルヘンチーナの公演を観た。アルヘンチーナは、「カスタネットの女王」とも呼ばれ、詩人ロルカも絶賛した20世紀のスペイン舞踊の革新者であった。一雄は、アルヘンチーナの舞踊に深い感銘を受けた。体操学校を卒業し、横浜のミッションスクール関東学院に体育教師として赴任する。大野一雄が踊りを始めた直接のきっかけは、その後捜真女学校に転任となったとき、体育の科目でダンスを教えなければならなくなったからだった。そこで、1933年に石井漠の門を叩き、さらに1936年には江口隆哉、宮操子の研究所に入った。しかし1938年に召集を受け、戦中の九年間は、中国、ニューギニアで従軍した。
大野一雄の第一回現代舞踊公演は、1949年、東京の神田共立講堂で行われた。このとき43歳、これが最初のリサイタルだった。ニューギニアのマノクワリで終戦となり、1年間の捕虜生活のあと復員し、すぐに舞踊家としての活動を再開した。「クラゲの踊り」という踊りを50年代の公演のときに踊っている。ニューギニアから帰る航海の船上で、栄養失調や病気で亡くなったひとたちを水葬して見送った体験から、そのときの海に浮かぶクラゲの踊りを踊りたかったのだという。
50年代の終わりに、土方巽と出会い、大野の踊りは大きな転機を迎える。二人の出会いは、「舞踏」、海外でも「BUTOH」として知られるスタイルを創造した。西洋の影響を強く受けたモダンダンスから、日本人の内面的な問題を扱う身体表現への転換であった。大野一雄がソロで踊り、土方巽が演出した「ラ・アルヘンチーナ頌」は、1977年に初演された。この作品は大野自身の代表作であり、また舞踏の代表作でもある。
1980年に、フランスのナンシー国際演劇祭に招かれ、大野一雄は「ラ・アルヘンチーナ頌」を踊る。大野の独創的な表現は西欧の同時代の芸術家たちに衝撃をもって受け入れられることになった。これははじめての海外公演だったが、このあと、大野の70歳代、80歳代の活動は欧州、北米、中南米、アジア各国に広がり、また、世界中から多くの研究生が大野の稽古場に集まって来た。90歳を越えてなお第一線での活動は続いた。最後の海外公演は、1999年12月ニューヨーク、「20世紀への鎮魂」である。しかしこの年、目を患い、体力の衰えも顕著になった。そんな中、老いをダンスの糧とするかのように、大野一雄の踊りは続いている。一人で立って歩くことが出来なくなると、支えられて踊った。支えられても立てないときは、座ったまま踊った。足が不自由になると手だけで踊った。頭がもやもやするとひとりいざって、人はその背中を見て感動した。
踊るとき、輝きを放つ存在になる。普通の老人が、人に力を与える存在に変貌する。そのような繰り返される事実が、大野一雄に対する関心を支えている。長く生きて、人を感動させる。大野一雄は、人間の可能性を拡げた芸術家だ。
大野一雄
特集
大野一雄
1906〜2010
1977年「ラ・アルヘンチーナ頌」ポスター
概要
1906〜1949年
1906
10月27日、北海道函館に生まれる。
1925
3月、大館中学校(秋田県)卒業。北海道函館近村の泉沢尋常高等小学校で代用教員を一年間勤める。
1926
4月、日本体育会体操学校(現日体大の前身)に入学。
12月、徴兵令により札幌歩兵第25連隊に入隊。一年四ヵ月の兵役につく。
1928
3月、除隊。
4月、体操学校に復学。
1929
1月、帝国劇場へスペイン舞踊の舞姫、ラ・アルヘンチーナ(アントニア・メルセ)の来日公演を観に行く。
3月、体操学校を卒業。
4月、横浜市のミッションスク-ル、私立関東学院に体操教師として赴任。
1930
キリスト教の洗礼を受ける。
1933
大竹チエと結婚。女学校転勤の準備のため石井漠舞踊研究所に入所、一年間学ぶ。
1934
4月、横浜のバプティスト系ミッションスク-ル、捜真女学校に就職。ドイツ表現主義の舞踊家、ハロルド・クロイツベルク(マリ-・ウィグマンの高弟)の来日公演を観に行く。
1936
江口・宮舞踊研究所に入所。江口・宮両氏はドイツでマリ-・ウィグマンにノイエタンツを学び、帰国後、日本のモダンダンス界の中心的存在だった。
1938
召集を受け、師団司令部情報将校の任につく。陸軍大尉として華北・ニュ-ギニアにて従軍。
1945
ニューギニアにて終戦。マヌクワリで一年間捕虜となる。
1946
復員。江口・宮舞踊研究所に復帰、先生に代わって代替稽古を行う。
1949
安藤三子舞踊公演「街によせるアンニュイ」に賛助出演。
11月、大野一雄現代舞踊第一回公演。神田共立講堂にて。「鬼哭」「タンゴ」「菩提樹の初花が」「エルンスト家の塑像」「グドモーニングかまきり」。
1950〜1959年
1950
10月、大野一雄現代舞踊第二回公演。神田共立講堂にて。「回帰線」「野を越えて」「シオンの竪琴」「街角(タンゴ)」「春の供物」「蓮」。
1951
11月、大野一雄現代舞踊第三回公演。神田共立講堂にて。「春の漂流」「巷に雨の」「運命を売る男」「蜜蜂の歌」「タンゴ」。
1953
11月、大野一雄舞踊団モダーンダンス公演。第一生命ホ-ルにて。「狐と石像」「天の果実」「断想」NHKテレビ伊藤海彦・樋口徹也構成・演出にて「断想」放映。
1954
安藤三子舞踊公演「鴉」に賛助出演。この頃、土方巽を知る。
1955
第十回国民体育大会神奈川大会の開会式のマスゲームを振り付ける。
1959
4月、大野一雄モダンダンス公演。第一生命ホ-ルにて。「太陽と屋根」「老人と海」「親切な神様」「靴」「鳩」。土方巽が舞監を勤める。
1960〜1969年
1960
7月、土方巽DANCEEXPERIENCEの会。第一生命ホ-ルにて。ジャン・ジュネの「花のノ-トルダム」に依る「ディヴィ-ヌ抄」で男娼ディヴィ-ヌ役、ロ-トレアモンの「マルドロ-ルの歌」に依る「処理場」でマルドロ-ル役を勤める。
1961
9月、土方巽DANCEEXPERIENCEの会に出演。第一生命ホ-ルにて。
1962
6月、土方巽作・演出によるレダの会発足第一回公演に出演。目黒アスベスト館にて。
1965
11月、土方巽作・演出の暗黒舞踏派提携公演、「バラ色ダンス 澁澤さんの家の方へ」に出演。千日谷公会堂にて。
1966
3月、アルトー館第一回公演に賛助出演。「部屋」。
7月、土方巽作・演出、暗黒舞踏派解散公演「性愛恩懲学指南図絵 トマト」に出演。紀伊國屋ホ-ルにて。
1967
4月、アルト-館第二回公演「ゲスラ-・テル群論」に土方巽らと出演。
7月、高井富子舞踏公演「形而情学」に賛助出演。
8月、石井満隆リサイタル「舞踏ジュネ」に賛助出演。
1968
石井満隆舞踏公演「おじゅね抄」に賛助出演。 高井富子舞踏公演「まんだら屋敷」に賛助出演。
1969
映画作家長野千秋と舞踏映画「O氏の肖像」を製作。
1970〜1979年
1971
長野千秋と舞踏映画「O氏の曼陀羅 遊行夢華」を製作。
1972
音楽と舞踏とマイムの詩劇「日本武命」に大野慶人とともに特別出演。構成・演出吉田道紀。日比谷野外劇場。
1973
長野千秋と舞踏映画「O氏の死者の書」を製作。
1975
武内靖彦舞踏公演「水仙譚」に賛助出演。新宿厚生年金ホ-ル。
1977
11月、「ラ・アルヘンチーナ頌」公演。土方巽演出。第一生命ホ-ルにて。
1979
2月江口隆哉追悼公演。白石かずこの詩による「一艘のカヌ-桜の木の下を往く」。郵便貯金ホ-ル。
1980〜1989年
1980
捜真女学校を退職。
5月、第14回ナンシ-国際演劇祭に参加。「ラ・アルヘンチーナ頌」「お膳または胎児の夢」公演。ストラスブール、ロンドン、シュツットガルト、パリ、ストックホルムを巡演。
8月、モントリオ-ル・ケベック大学のシンポジウムに招待され、講演と「ラ・アルヘンチーナ頌」公演。
1981
1月、「わたしのお母さん」公演。土方巽演出。第一生命ホ-ルにて。
7月、ベネズエラのカラカス国際演劇祭に参加。「ラ・アルヘンチーナ頌」「わたしのお母さん」公演。カラカス大学にて講演。
8月、ニュ-ヨ-クのラ・ママで公演、「ラ・アルヘンチーナ頌」「わたしのお母さん」。
1982
5月-7月、ヨ-ロッパ各地を巡演。ミュンヘン世界演劇祭、アビニオン演劇祭に参加、他、ジュネ-ブ、コペンハ-ゲン、バルセロナ等で公演。
1983
2月-3月、イタリア、イスラエルを巡演。死海を訪れる。10月、ドイツのブッパータル・ジャズ・フェスティバルにて白石かずこと「詩と舞踏」上演。
1984
4月、東京の西武スタジオ200にてパフォ-マンスと講演。
1985
2月、舞踏フェスティバル'85に参加。「死海 ウインナーワルツと幽霊」。土方巽演出(大野慶人共演)「ラ・アルヘンチーナ頌」公演。銀座マリオン、朝日ホ-ル。
5月、韓国の梨花大学にてパフォ-マンスと講演。7月、東京の転形劇場T2スタジオにて公演、「死海」「ラ・アルヘンチーナ頌」。
8月-9月、イタリアのリミニ、ロベレ-ト、ケルン、ジュネ-ブを巡演。
11月、三井グル-プのクロ-ズ・アップ・オブ・ジャパンに参加。ニュ-ヨ-クのジョイス劇場にて公演。コ-ネル大学にてパフォ-マンスと講演。
1986
3月、オ-ストラリアのアデレ-ド国際演劇祭に参加。
4月、サンパウロ,ブエノスアイレス公演。
5月、ベルリン舞踏フェスティバルに参加。
6月、ミネアポリス、ボストン公演。
9月-10月、ヨ-ロッパ各地を巡演。パリ、ロンドン、ブリュッセル、ロ-マ等で公演。
11月、横浜公演。横浜市教育文化センタ-にて「わたしのお母さん」、関内ホ-ルにて、「ラ・アルヘンチーナ頌」「死海」。
12月、福島公演、福島公会堂にて、「ラ・アルヘンチーナ頌」「死海」。
1987
3月、マドリッド演劇祭参加。「ラ・アルヘンチーナ頌」「死海」公演。
4月、仙台エルパ-クにて、「ラ・アルヘンチーナ頌」「わたしのお母さん」公演。
6月、シュツットガルト・世界演劇祭に参加、フェスティバルのオープニングで、新作「睡蓮」発表。ドイツ、スイス巡演。
7月、山形県升玉村にて土方巽野辺送りに参加。
8月、銀座セゾン劇場の土方巽追悼公演企画に参加。「睡蓮」上演。
9月、福島県檜枝岐の国際フェスティバルに参加。大野慶人と共に神社の境内で即興舞踏を行う。
12月、アスベスト館主催、神戸シアタ-ポシェット館「異人坂舞踏幻想ことばからだ」(協力・琴座俳句会)に参加。
1988
6月、第一回ニュ-ヨ-ク国際芸術フェスティバル参加。「睡蓮」公演。
8月、東京国際演劇祭88池袋に参加。スタジオ200にて「蟲びらき」上演。
10月、東ドイツのドレスデン現代音楽フェスティバル参加。「ラ・アルヘンチーナ頌」公演ならびにマリ-・ウィグマン紀念講堂にてシンポジウム。また、マリ-・ウィグマンの高弟パルッカの主宰する舞踊学校を訪問。パルッカ自らの指導を見学する。10月帰国後、東京ドイツ文化センタ-にて「睡蓮」上演。
11月、岡山県牛窓国際芸術祭に参加。野外劇場にて「死海」上演。
1989
7月-8月、イタリア各地及びウィ-ンを巡演。また、ベニス、ウィ-ンにてワ-クショップを行う。
9月、モントリオ-ル・ダンス・フェスティバル参加。
10月、ブダペスト・IMMTフェスティバル、ベルギ-・ユ-ロパリア'89、メキシコ・セルバンティ-ノ・フェスティバル参加。
11月、イタリアのバリ、シシリ-島巡演。西べルリンにてワ-クショップと公演、「ラ・アルヘンチーナ頌」「死海」「睡蓮」。バイオリンの名工、ストラディバリウスの工房のあったイタリアのクレモナを訪れる。翌90年5月にクレモナの市立劇場にて新作を制作することになる。
1990〜1999年
1990
1月、伊丹市アイホ-ルにて「ラ・アルヘンチーナ頌」「死海」公演。
2月、名古屋七つ寺共同スタジオにて「蟲びらき」(美術・水谷勇夫)上演。
4月、舞踏についてのエッセイと写真を含む最初の著書『御殿、空を飛ぶ』、思潮社より出版される。
5月、イタリア・クレモナのポンキエッリ劇場にて新作「花鳥風月」を発表。フィレンツェにて「睡蓮」「花鳥風月」公演。スペイン・バリャドリッド・フェスティバル参加。バルセロナ&ヨコハマ・シティ・クリエ-ションにて「睡蓮」上演。
8月、高松、札幌、釧路にて公演。
9月、三井グル-プのクロ-ズ・アップ・オブ・ジャパンに参加、トロントにて公演。
10-11月、ゲッティンゲン、パリ、プラハにて公演とワ-クショップ。
1991
2月、金沢市文化ホ-ルにて「睡蓮」。8月、銀座セゾン劇場にて「花鳥風月」公演。
8-9月、イタリアのカスティリオンチェロ,ロベレ-ト及びヘルシンキ、ジュネ-ブの各フェスティバルにて公演。また同時にヘルシンキでは演劇学校にてワ-クショップも行う。9月、北海道石狩川河口特設野外ステ-ジにて、川と鮭に捧ぐ舞踏「石狩の鼻曲がり」。この時期はちょうど鮭が産卵のために川を上ってくるときにあたる。同月、能登の七尾市長福寺境内にて野外公演「死海」。また同月、映画「魂の風景」(監督・平野克己)、池袋スタジオ200で公開。12月、藤沢市湘南台文化センタ-にて「ラ・アルヘンチーナ頌」公演。
1992
1月、ブッパ-タル、ゲッティンゲンで公演。
2月、テルプシコ-ル開館10周年記念公演「夢十夜」(立会人太田省吾)。
3月、TOKYOFMホ-ルにて「白蓮」(共演:三宅榛名、大野慶人)。
4月、ベルリン(三井クロ-ズアップオブジャパン)、ブレ-メンにて「花鳥風月」公演。
6-7月、ブラジルのロンドリ-ナ、サント・アンドレ、ベロ・オリゾンチにて「睡蓮」「花鳥風月」公演。
8月、仙台、広島にて公演。
10月、舞踏創作のメモを集成した『デッサン』が緑鯨社より出版される。
11月、大垣にて「小栗判官照手姫」公演(共演:土取利行、桃山晴衣、大野慶人)。大垣市は小栗と照手再会の地、青墓に近い縁の場所。同月、釧路にて「花鳥風月」公演。
12月、東京、江東区文化センタ-にて「睡蓮」公演。
1993
2月、香港芸術祭にて公演。
3月、NHK制作「音楽ファンタジ-KUROZUKA」に出演。川崎市民ミュ-ジアムにて「白蓮」公演。
4月、横浜赤レンガ倉庫にて公演、「御殿、空を飛ぶ」。
8月、アジア国際舞踊会議の一環として大館と秋田にて公演。ソウル日本舞踏フェスティバルに参加、「ラ・アルヘンチーナ頌」「睡蓮」公演。
10-11月、全米ツア-、ロスアンゼルス、シアトル、オマハ、カンザスシチ-、エル・パソ、ミネアポリス、ニュ-ヨ-ク、リッチモンド、アムハ-スト等を巡演。
11月、神奈川文化賞を受賞する。12月、湘南台文化センタ-にて「小栗判官照手姫」公演(共演:土取利行、桃山晴衣、大野慶人)
1994
4月、全作品上演計画の第一回としてテアトルフォンテ(横浜市泉区民文化センタ-)にて「睡蓮」公演。
5-6月、シンガポ-ル芸術祭、台北の国立芸術学院にて「死海」「睡蓮」公演。
6月、テアトルフォンテにて「睡蓮」追加公演。
7月、欧州ツア-、リスボン、パリ、アヴィニヨン、ペリグ-にて公演。
9月、全作品上演計画の第二回として「ラ・アルヘンチーナ頌」公演。
10月、ホルステブロ(デンマ-ク)のオディン・シアタ-創立30周年記念イベントに招かれる。席上、グロトフスキ-と会う。ワルシャワにて「睡蓮」公演。
12月、「小栗判官照手姫」を東京赤坂国際交流フォ-ラムにて再演。
1995
1月、宮崎県立芸術劇場で「睡蓮」公演。
2月、全作品上演計画の第三回としてテアトルフォンテにて「死海」公演。
4月、慶応大学日吉キャンパス入学記念行事にて公演「天道地道」。
5月、高知県立美術館にて「睡蓮」公演。ダニエル・シュミット監督による短編映画「KAZUOOHNO」に主演、5月名古屋にて公開される。
6月、東京、シアタ-Xにて音楽家三宅榛名と共演「夢の一日」。
10月、ア-ト・サミット・インドネシア'95に参加、パダンパンジャン(西スマトラ)とジャカルタで公演。同月、兵庫県揖保川町の超念寺にて「暈狂う舞」上演。
11月、全作品上演計画の第四回としてテアトルフォンテにて「わたしのお母さん」公演。
1996
2月、ニュ-ヨ-クで「わたしのお母さん」公演。ダニエル・シュミット監督による映画「書かれた顔」に出演。3月に東京で公開される。
3月、大阪、トリイホ-ルにて「天道地道」公演。
5月、全作品上演計画の第五回としてテアトルフォンテにて「花鳥風月」公演。同月、ケベック市カルフール国際演劇祭に参加。
9月、シアターXにて「花火の家の入口で」公演。
10月、姫路文学館「俳人 永田耕衣に世界」展にて祝舞「睡蓮」公演。同月、横浜、県民小ホールで「大野一雄の世界 ディヴィーヌ抄より」公演。
11月、釧路にて「わたしのお母さん」公演。
1997
3月、イタリアのフェラーラ、リミニとドイツのレムシャイトで「天道 地道」公演。『大野一雄 稽古の言葉』(フィルムアート社)出版される。
5月、サンパウロとその近郊サントアンドレ、サントスで「天道 地道」「睡蓮」公演。
6月、妻大野チエ逝去。
9月、大坂、トリイホールで「睡蓮」公演。
10月、函館、金森ホールにて「睡蓮」公演。
11月、全作品上演計画の第六回としてテアトルフォンテにて「天道 地道」公演。『大野一雄』(青樹社)出版される。
1998
2月、テアトルフォンテにて「わたしのお母さん」公演。
3月、宮崎県立芸術劇場で「天道 地道」公演。
4月、千葉市美術館で開催された「曽我蕭白展」のなかで公演、「大野一雄、蕭白を舞う」。国際演劇協会(ITI)のメッセンジャー・オブ・ザ・イヤーに選ばれ、4月29日、インターナショナル・ダンス・デイに各国のITI事務局に大野一雄のメッセージを発信する。
5月、日本文化デザイン賞受賞。
6月、シアターコクーンで「無」公演(演出 岡本章 共演 観世栄夫 三宅榛名)。
11月、横浜文化賞受賞。同月、世田谷パブリックシアターで「天道 地道」公演。
12月、大阪、トリイホールで「天道 地道」公演。
1999
1月、近江楽堂にて「テロスを消去・・・1999」公演。
3月、アトリエ公演「大野一雄 舞踏の会」上星川稽古場にて。
6月、ジョクサン・インターナショナル・アート・フェスティバル(韓国)に参加。
9月、『大野一雄 魂の糧』(フィルムアート社)出版される。また、同月、両目白内障と右目眼底出血を手術。
10月、ミケランジェロ・アントニオーニ芸術賞受賞。ベネツィアで授賞式が行われる。同時に、ベネツィア・ビエンナーレにて公演、"CELEBRATION"。帰国後、右目網膜剥離手術。
12月、ニューヨークにて公演、「20世紀への鎮魂」。同月前橋芸術週間に参加、旧群馬県庁舎正庁の間で公演。
1990〜1999年
1990
1月、伊丹市アイホ-ルにて「ラ・アルヘンチーナ頌」「死海」公演。
2月、名古屋七つ寺共同スタジオにて「蟲びらき」(美術・水谷勇夫)上演。
4月、舞踏についてのエッセイと写真を含む最初の著書『御殿、空を飛ぶ』、思潮社より出版される。
5月、イタリア・クレモナのポンキエッリ劇場にて新作「花鳥風月」を発表。フィレンツェにて「睡蓮」「花鳥風月」公演。スペイン・バリャドリッド・フェスティバル参加。バルセロナ&ヨコハマ・シティ・クリエ-ションにて「睡蓮」上演。
8月、高松、札幌、釧路にて公演。
9月、三井グル-プのクロ-ズ・アップ・オブ・ジャパンに参加、トロントにて公演。
10-11月、ゲッティンゲン、パリ、プラハにて公演とワ-クショップ。
1991
2月、金沢市文化ホ-ルにて「睡蓮」。8月、銀座セゾン劇場にて「花鳥風月」公演。
8-9月、イタリアのカスティリオンチェロ,ロベレ-ト及びヘルシンキ、ジュネ-ブの各フェスティバルにて公演。また同時にヘルシンキでは演劇学校にてワ-クショップも行う。9月、北海道石狩川河口特設野外ステ-ジにて、川と鮭に捧ぐ舞踏「石狩の鼻曲がり」。この時期はちょうど鮭が産卵のために川を上ってくるときにあたる。同月、能登の七尾市長福寺境内にて野外公演「死海」。また同月、映画「魂の風景」(監督・平野克己)、池袋スタジオ200で公開。12月、藤沢市湘南台文化センタ-にて「ラ・アルヘンチーナ頌」公演。
1992
1月、ブッパ-タル、ゲッティンゲンで公演。
2月、テルプシコ-ル開館10周年記念公演「夢十夜」(立会人太田省吾)。
3月、TOKYOFMホ-ルにて「白蓮」(共演:三宅榛名、大野慶人)。
4月、ベルリン(三井クロ-ズアップオブジャパン)、ブレ-メンにて「花鳥風月」公演。
6-7月、ブラジルのロンドリ-ナ、サント・アンドレ、ベロ・オリゾンチにて「睡蓮」「花鳥風月」公演。
8月、仙台、広島にて公演。
10月、舞踏創作のメモを集成した『デッサン』が緑鯨社より出版される。
11月、大垣にて「小栗判官照手姫」公演(共演:土取利行、桃山晴衣、大野慶人)。大垣市は小栗と照手再会の地、青墓に近い縁の場所。同月、釧路にて「花鳥風月」公演。
12月、東京、江東区文化センタ-にて「睡蓮」公演。
1993
2月、香港芸術祭にて公演。
3月、NHK制作「音楽ファンタジ-KUROZUKA」に出演。川崎市民ミュ-ジアムにて「白蓮」公演。
4月、横浜赤レンガ倉庫にて公演、「御殿、空を飛ぶ」。
8月、アジア国際舞踊会議の一環として大館と秋田にて公演。ソウル日本舞踏フェスティバルに参加、「ラ・アルヘンチーナ頌」「睡蓮」公演。
10-11月、全米ツア-、ロスアンゼルス、シアトル、オマハ、カンザスシチ-、エル・パソ、ミネアポリス、ニュ-ヨ-ク、リッチモンド、アムハ-スト等を巡演。
11月、神奈川文化賞を受賞する。12月、湘南台文化センタ-にて「小栗判官照手姫」公演(共演:土取利行、桃山晴衣、大野慶人)
1994
4月、全作品上演計画の第一回としてテアトルフォンテ(横浜市泉区民文化センタ-)にて「睡蓮」公演。
5-6月、シンガポ-ル芸術祭、台北の国立芸術学院にて「死海」「睡蓮」公演。
6月、テアトルフォンテにて「睡蓮」追加公演。
7月、欧州ツア-、リスボン、パリ、アヴィニヨン、ペリグ-にて公演。
9月、全作品上演計画の第二回として「ラ・アルヘンチーナ頌」公演。
10月、ホルステブロ(デンマ-ク)のオディン・シアタ-創立30周年記念イベントに招かれる。席上、グロトフスキ-と会う。ワルシャワにて「睡蓮」公演。
12月、「小栗判官照手姫」を東京赤坂国際交流フォ-ラムにて再演。
1995
1月、宮崎県立芸術劇場で「睡蓮」公演。
2月、全作品上演計画の第三回としてテアトルフォンテにて「死海」公演。
4月、慶応大学日吉キャンパス入学記念行事にて公演「天道地道」。
5月、高知県立美術館にて「睡蓮」公演。ダニエル・シュミット監督による短編映画「KAZUOOHNO」に主演、5月名古屋にて公開される。
6月、東京、シアタ-Xにて音楽家三宅榛名と共演「夢の一日」。
10月、ア-ト・サミット・インドネシア'95に参加、パダンパンジャン(西スマトラ)とジャカルタで公演。同月、兵庫県揖保川町の超念寺にて「暈狂う舞」上演。
11月、全作品上演計画の第四回としてテアトルフォンテにて「わたしのお母さん」公演。
1996
2月、ニュ-ヨ-クで「わたしのお母さん」公演。ダニエル・シュミット監督による映画「書かれた顔」に出演。3月に東京で公開される。
3月、大阪、トリイホ-ルにて「天道地道」公演。
5月、全作品上演計画の第五回としてテアトルフォンテにて「花鳥風月」公演。同月、ケベック市カルフール国際演劇祭に参加。
9月、シアターXにて「花火の家の入口で」公演。
10月、姫路文学館「俳人 永田耕衣に世界」展にて祝舞「睡蓮」公演。同月、横浜、県民小ホールで「大野一雄の世界 ディヴィーヌ抄より」公演。
11月、釧路にて「わたしのお母さん」公演。
1997
3月、イタリアのフェラーラ、リミニとドイツのレムシャイトで「天道 地道」公演。『大野一雄 稽古の言葉』(フィルムアート社)出版される。
5月、サンパウロとその近郊サントアンドレ、サントスで「天道 地道」「睡蓮」公演。
6月、妻大野チエ逝去。
9月、大坂、トリイホールで「睡蓮」公演。
10月、函館、金森ホールにて「睡蓮」公演。
11月、全作品上演計画の第六回としてテアトルフォンテにて「天道 地道」公演。『大野一雄』(青樹社)出版される。
1998
2月、テアトルフォンテにて「わたしのお母さん」公演。
3月、宮崎県立芸術劇場で「天道 地道」公演。
4月、千葉市美術館で開催された「曽我蕭白展」のなかで公演、「大野一雄、蕭白を舞う」。国際演劇協会(ITI)のメッセンジャー・オブ・ザ・イヤーに選ばれ、4月29日、インターナショナル・ダンス・デイに各国のITI事務局に大野一雄のメッセージを発信する。
5月、日本文化デザイン賞受賞。
6月、シアターコクーンで「無」公演(演出 岡本章 共演 観世栄夫 三宅榛名)。
11月、横浜文化賞受賞。同月、世田谷パブリックシアターで「天道 地道」公演。
12月、大阪、トリイホールで「天道 地道」公演。
1999
1月、近江楽堂にて「テロスを消去・・・1999」公演。
3月、アトリエ公演「大野一雄 舞踏の会」上星川稽古場にて。
6月、ジョクサン・インターナショナル・アート・フェスティバル(韓国)に参加。
9月、『大野一雄 魂の糧』(フィルムアート社)出版される。また、同月、両目白内障と右目眼底出血を手術。
10月、ミケランジェロ・アントニオーニ芸術賞受賞。ベネツィアで授賞式が行われる。同時に、ベネツィア・ビエンナーレにて公演、"CELEBRATION"。帰国後、右目網膜剥離手術。
12月、ニューヨークにて公演、「20世紀への鎮魂」。同月前橋芸術週間に参加、旧群馬県庁舎正庁の間で公演。
2000~2010年
2000
1月、大阪のトリイホールで公演。
6月、横浜で、「宇宙の花」公演。
10月、東京国際舞台芸術祭で、「宇宙の花」。
11月、左臀部下内出血で入院、年内の公演予定を中止する。同月、東京で「大野一雄 オン・スクリーン」。映画、公演記録映像16作品を一挙上映。
2001
1月、ビデオ/DVD「大野一雄 美と力」(NHKソフトウェア)出版。
3月、上星川稽古場でアトリエ公演再開、7月まで月一回開催。
10月、東京国際舞台芸術祭で「花」公演。(新宿パークタワーホール)。
11月、織部賞受賞。
2002
1月、京都精華大学で公演。朝日舞台芸術賞特別賞を受賞。
4月、ボローニャ大学に大野一雄資料室が開設。
5月、大地の芸術祭越後妻有アートトリエンナーレ2003プレイベント 中川幸夫「花狂い」に参加。
9月、東京で「わたしの舞踏の”命” かたちと心」公演。
11月、慶應大学イサムノグチルームで公演。書籍『Kazuo Ohno's World』(ウェーイズリアン大学出版)発売。
2003
2月、函館金森ホール開館15周年記念「我が母の教え給いし歌」公演。
4月、赤レンガ倉庫開館一周年記念 大野一雄舞踏公演フィルム「御殿、空を飛ぶ」(1993年)上映と公演。
8月、愛知芸術文化センター 大野一雄ビデオライブラリー開設記念テーマ上映会で公演。
9月、養老天命反転地(養老・岐阜)「死の脈絡」野外公演。
10月、川崎市岡本太郎美術館「土方巽抄」で大野一雄舞踏公演。
11月、桐生で大野一雄・慶人舞踏公演「大切な’ひと’」。DVD「O! Kind God! 親切な神様」(Canta Ltd.、監督:ジャンニ・ディ・カプア)発売。
2004
6−7月、Kazuo Ohno Festival2004(主催 大野一雄舞踏研究所+BankART1929)開催。あわせて、書籍『大野一雄 九十七歳の履歴書』(BankART1929出版)発売。
DVD「KAZUO OHNO」&「O氏の肖像」 (Canta Ltd.、KAZUO OHNO (1995) 監督:ダニエル・シュミット/O氏の肖像(1969) 監督:長野千秋)発売。
2005
10−11月、Kazuo Ohno Festival2005(主催 大野一雄舞踏研究所+BankART1929)開催。あわせて、書籍『大野一雄と土方巽の60年代』(BankART1929出版)発売。
12月、横浜・テアトルフォンテにて大野慶人公演「一心」に出演。
2006
7月、自宅と稽古場にて丹下紘希監督による映画「イエス 花 死 生」の撮影。
10月、Kazuo Ohno Festival 2006(主催 大野一雄舞踏研究所+BankART1929)開催。「大野一雄100歳の日」に参加、多くのファンと共に100歳の誕生日を祝う。書籍『細江英公人間写真集 胡蝶の夢』(青幻舎)発売。
10月―1月、ルーブル美術館の「Corps etrangers-Dance, dessin, film」に「O氏の肖像」出展。
12月、ポンピドゥセンターにて「大野一雄ロングインタビュー」上映。
2007
1月、神奈川県立青少年センターにて、100歳を祝うガラ公演「百花繚乱」。カーテンコールにて車椅子で舞台にあがる。書籍『百年の舞踏』(フィルムアート社)発売。
3月、大津幸四郎監督によるドキュメンタリー映画「大野一雄 ひとりごとのように」公開。
3-4月、イタリアのボローニャ考古学博物館にて展覧会「Buon Compleanno, Maestro! Omaggio a Kazuo Ohno」開催。
10月、Kazuo Ohno Festival 2007(主催 大野一雄舞踏研究所+BankART1929)開催。カロリン・カールソン公演「DOUBLE VISION」での舞台挨拶が、最後にあがった舞台となる。書籍『大野一雄百歳の年』(BankART1929出版)発売。ニューヨーク・ジャパン・ソサエティにて「Kazuo Ohno101 大野一雄101歳記念:舞踏パレードの3週間」開催。
11月、明治学院大学にて国際シンポジウム「大野一雄 舞踏と生命」開催。
12月、入院。
2008
2月、退院。その後、ベッドの上での暮らしとなる。
3-5月、サンパウロのセスキ・パウリスタで大野一雄展「KAZUO OHNO101」開催。展覧会は、リオ・プレト、カンピーナスを巡回。
10月、Kazuo Ohno Festival 2008(主催 大野一雄舞踏研究所+BankART1929)開催。
2009
9-10月、Kazuo Ohno Festival 2009(主催 大野一雄舞踏研究所+BankART1929)開催。
2010
2月、東京・草月ホールに「ANTONY AND THE OHNOS―魂の糧」公演。Antony and the Johnsonsと、大野一雄の映像、大野慶人の舞踏とのコラボレーション。DVD「大野一雄 花×天空散華 いけばな作家・中川幸夫の挑戦」(有限会社かんた、NHKエンタープライズ)発売。
6月1日、緊急入院。家族や近親者に見守られながら16時38分召天。享年103歳。
7月17日、横浜・BankART Studio NYKにて「ブラヴォー! 大野一雄の会」。700人余りが訪れ、大野一雄にお別れと感謝の気持ちを捧げた。記念書籍『大野一雄年代記1906-2010』(有限会社かんた)発売。
2000~2010年
2000
1月、大阪のトリイホールで公演。
6月、横浜で、「宇宙の花」公演。
10月、東京国際舞台芸術祭で、「宇宙の花」。
11月、左臀部下内出血で入院、年内の公演予定を中止する。同月、東京で「大野一雄 オン・スクリーン」。映画、公演記録映像16作品を一挙上映。
2001
1月、ビデオ/DVD「大野一雄 美と力」(NHKソフトウェア)出版。
3月、上星川稽古場でアトリエ公演再開、7月まで月一回開催。
10月、東京国際舞台芸術祭で「花」公演。(新宿パークタワーホール)。
11月、織部賞受賞。
2002
1月、京都精華大学で公演。朝日舞台芸術賞特別賞を受賞。
4月、ボローニャ大学に大野一雄資料室が開設。
5月、大地の芸術祭越後妻有アートトリエンナーレ2003プレイベント 中川幸夫「花狂い」に参加。
9月、東京で「わたしの舞踏の”命” かたちと心」公演。
11月、慶應大学イサムノグチルームで公演。書籍『Kazuo Ohno's World』(ウェーイズリアン大学出版)発売。
2003
2月、函館金森ホール開館15周年記念「我が母の教え給いし歌」公演。
4月、赤レンガ倉庫開館一周年記念 大野一雄舞踏公演フィルム「御殿、空を飛ぶ」(1993年)上映と公演。
8月、愛知芸術文化センター 大野一雄ビデオライブラリー開設記念テーマ上映会で公演。
9月、養老天命反転地(養老・岐阜)「死の脈絡」野外公演。
10月、川崎市岡本太郎美術館「土方巽抄」で大野一雄舞踏公演。
11月、桐生で大野一雄・慶人舞踏公演「大切な’ひと’」。DVD「O! Kind God! 親切な神様」(Canta Ltd.、監督:ジャンニ・ディ・カプア)発売。
2004
6−7月、Kazuo Ohno Festival2004(主催 大野一雄舞踏研究所+BankART1929)開催。あわせて、書籍『大野一雄 九十七歳の履歴書』(BankART1929出版)発売。
DVD「KAZUO OHNO」&「O氏の肖像」 (Canta Ltd.、KAZUO OHNO (1995) 監督:ダニエル・シュミット/O氏の肖像(1969) 監督:長野千秋)発売。
2005
10−11月、Kazuo Ohno Festival2005(主催 大野一雄舞踏研究所+BankART1929)開催。あわせて、書籍『大野一雄と土方巽の60年代』(BankART1929出版)発売。
12月、横浜・テアトルフォンテにて大野慶人公演「一心」に出演。
2006
7月、自宅と稽古場にて丹下紘希監督による映画「イエス 花 死 生」の撮影。
10月、Kazuo Ohno Festival 2006(主催 大野一雄舞踏研究所+BankART1929)開催。「大野一雄100歳の日」に参加、多くのファンと共に100歳の誕生日を祝う。書籍『細江英公人間写真集 胡蝶の夢』(青幻舎)発売。
10月―1月、ルーブル美術館の「Corps etrangers-Dance, dessin, film」に「O氏の肖像」出展。
12月、ポンピドゥセンターにて「大野一雄ロングインタビュー」上映。
2007
1月、神奈川県立青少年センターにて、100歳を祝うガラ公演「百花繚乱」。カーテンコールにて車椅子で舞台にあがる。書籍『百年の舞踏』(フィルムアート社)発売。
3月、大津幸四郎監督によるドキュメンタリー映画「大野一雄 ひとりごとのように」公開。
3-4月、イタリアのボローニャ考古学博物館にて展覧会「Buon Compleanno, Maestro! Omaggio a Kazuo Ohno」開催。
10月、Kazuo Ohno Festival 2007(主催 大野一雄舞踏研究所+BankART1929)開催。カロリン・カールソン公演「DOUBLE VISION」での舞台挨拶が、最後にあがった舞台となる。書籍『大野一雄百歳の年』(BankART1929出版)発売。ニューヨーク・ジャパン・ソサエティにて「Kazuo Ohno101 大野一雄101歳記念:舞踏パレードの3週間」開催。
11月、明治学院大学にて国際シンポジウム「大野一雄 舞踏と生命」開催。
12月、入院。
2008
2月、退院。その後、ベッドの上での暮らしとなる。
3-5月、サンパウロのセスキ・パウリスタで大野一雄展「KAZUO OHNO101」開催。展覧会は、リオ・プレト、カンピーナスを巡回。
10月、Kazuo Ohno Festival 2008(主催 大野一雄舞踏研究所+BankART1929)開催。
2009
9-10月、Kazuo Ohno Festival 2009(主催 大野一雄舞踏研究所+BankART1929)開催。
2010
2月、東京・草月ホールに「ANTONY AND THE OHNOS―魂の糧」公演。Antony and the Johnsonsと、大野一雄の映像、大野慶人の舞踏とのコラボレーション。DVD「大野一雄 花×天空散華 いけばな作家・中川幸夫の挑戦」(有限会社かんた、NHKエンタープライズ)発売。
6月1日、緊急入院。家族や近親者に見守られながら16時38分召天。享年103歳。
7月17日、横浜・BankART Studio NYKにて「ブラヴォー! 大野一雄の会」。700人余りが訪れ、大野一雄にお別れと感謝の気持ちを捧げた。記念書籍『大野一雄年代記1906-2010』(有限会社かんた)発売。