大野一雄は、毎年12月になると、横浜市保土ケ谷の自宅近くにある 上星川 幼稚園のクリスマス礼拝にサンタクロースの格好で出かけ、子供達と一緒にお祝いをした。1960年頃、この地域に引っ越してきてから、2006年まで毎年続けた、大切な年中行事だった。
1960年当時、大野一雄は横浜にある 捜真 女学校で体育の教員として勤めていた。同時に、この頃は土方巽の前衛的な作品に参加するようになり、芸術面ではずいぶんと激動の時期であったことが推察される。しかし、幼稚園のクリスマスは同じ日常の別の地平にあったようだ。
クリスマスイベントに、大野一雄から、見に来なさいよと言われた記憶があまりない。別段秘密というわけではない。見に行きたいですと言えば、いらっしゃいよ、となるのだが、これは大野一雄の「私」の部分な気がして、ずかずかと上がり込むことはためらわれた。とても濃密な、大切な時間がすごされていることが、遠目にも感じられたからだ。
こういうクリスマス行事が、長年にわたりどうして続けられただろうか。
大野一雄の長い芸術活動を顧みると、 捜真 教会を中心とするコミュニティから多くの支えを得ていることに気づく。このような突出した芸術家のかくも先鋭的な芸術活動に、横浜の小さな、しかし親密なキリスト教コミュニティが深く関係しているということには、新鮮な驚きを覚えざるをえない。大野一雄の公演の中核となる観客が、一貫して、学校の同僚、教え子達であり、教会員であり、近所の人たちだったことは、じつにすばらしいことだと思う。幼稚園の園児達もその延長にいて、その前で大野一雄はひとりの舞踏家である。クリスマス行事がこうして続いた理由は、それが大野一雄舞踏公演だったからではないだろうか。
「12月は、ちょっとダメなんだ、幼稚園があるからね」と大野一雄からよく言われた。幼稚園のクリスマス礼拝は、だいたい12月初旬で、そこには、海外公演も国内の仕事も入れられないのだ。この1999年のクリスマスは少し特別で、下旬にニューヨークに行った。ミレニアムの最後の時に、ニューヨーク・ジャパン・ソサエティからのたっての招きで公演をした。タイトルは「20世紀への鎮魂」。チケットの売れ行きは上々だった。多くの人たちが、クリスマスプレゼントに公演チケットを買っていると、ジャパン・ソサエティのディレクターから連絡を受けていた。小さな地域の活動がニューヨークにも届くのかもしれない。幼稚園の楽屋でもそんなことを話していた気がする。
2016年4月25日 上星川幼稚園にて
取材:溝端俊夫
撮影・編集:飯名尚人
特別号「大野一雄のクリスマス」スタッフ
撮影ディレクター:水谷 出
撮影:早野嘉伸
構成・演出・映像編集:飯名尚人
渉外・テキスト:溝端俊夫
広報:呉宮百合香
翻訳:本田 舞
グラフィック:北風総貴(ヤング荘)
協力:上星川幼稚園 大野一雄舞踏研究所
WEBサイト制作:飯名尚人
WEBテキスト:溝端俊夫
WEB翻訳:本田 舞
主催:NPO法人ダンスアーカイヴ構想