1952 大野一雄、映画「天井桟敷の人々」 (マルセル ・ カルネ監督)を見て、ジャン=ルイ・バローの演技に感銘を受ける。
1953 ヨネヤマママコ、東京教育大学体育学部(現筑波大学)入学。在学中、大野一雄の稽古に通う。
1954 ヨネヤマママコ、処女作「雪の夜に猫を捨てる」を発表。
及川廣信、渡仏。エティエンヌ・ドゥクルー「エコール・ド・ムーブマン」、レオ・スターツ「コンセルヴァトワール・コレグラフィック・ド・パリ」で学ぶ。
1955 マルセル・マルソー初来日公演。
1956 及川廣信、帰国。
安藤三子・堀内完ユニーク・ダンス・グループ「カルメン」に賛助出演、土方巽に出会う。
1958 ヨネヤマママコ、NHKテレビ「私はパック」のパック役でデビュー。
ヨネヤマママコ振付「ハンチキキ」(今井重幸構成演出)に土方巽、大野一雄が出演。
1959 大野慶人、土方巽「禁色」に少年役で出演。
1960 日本マイム・スタジオ設立。初代所長、及川廣信。
ジャン=ルイ・バロー一座、初来日公演。
ヨネヤマママコ、渡米。大学・劇団でマイムを教えながら基礎メソッドを研究。
1961 大野慶人、及川廣信にクラシックバレエとマイムを、大藏彌太郎に謡と仕舞を師事。
1962 テオ・レゾワルシュ*/エクスペリメンタル・マイム Polymorphose、「能とマイムの実験」に観世栄夫が出演。
*テオ・レゾワルシュ(1930-2008):1960~70年代に日本に滞在し、土方巽らとも親交のあった、フランスのマイムアーティスト。『Erotique du Japon[日本のエロティック]』 と『Les rizières du théâtre japonais[日本演劇の田地]』を著し、フランスにおける現代日本演劇紹介の嚆矢となった。
1963 土方巽「あんま——愛慾を支える劇場の話」に大野一雄、大野慶人、佐々木博康らが出演。
1965 マイム・フェスティバル「空間と沈黙の祭り」開催。及川廣信「割礼」を発表。テオ・レゾワルシュ作品に大野慶人が出演。
土方巽「バラ色ダンス――A LA MAISON DE M. CIVECAWA(澁澤さんの家の方へ)」に大野一雄、大野慶人が出演。
1966 及川廣信主宰、アルトー館第一回公演。大野一雄、大野慶人が「部屋」に出演。
1967 アルトー館第2回公演「ゲスラー・テル群論」に土方巽、大野一雄、大野慶人が出演。
1968 土方巽「土方巽と日本人――肉体の叛乱」を発表。
1969 独舞公演「大野慶人DANCE EXPERIENCEの会」
プロジェクト
All About Zero
及川廣信×ヨネヤマママコ×大野慶人
清水寛二 tarinainanika 木檜朱実
舞踏・マイム・能が、再び出会い、対話する。
解 説
舞踏ゼロ世紀 略年譜
舞踏
戦後日本で生まれた前衛的身体表現。土方巽「禁色」(1959)が最初の作品とされる。土方は、モダンダンス、バレエなど西洋舞踊を学びながらも、舞踏をもってその価値観を転覆させることを試みた。70年代後半より世界各地に広まり、なかでも74 歳で海外デビュー、103歳で逝去するまで踊り続けた大野一雄は、若さを至上とする舞踊界に衝撃を与えた。
マイム/パントマイム
言葉を使わずに、身体の動きによって物語や感情を描写する方法。ローマ時代に芸能として独立。一時は雑芸に吸収されるが、20世紀初頭に無声映画の中で再生するとともに、現代演劇の指導者により俳優養成の技術として再評価される。その後、エティエンヌ・ドゥクルー、ジャン=ルイ・バロー、マルセル・マルソーらにより、現代のマイム芸術が確立した。
能
地謡と囃子の伴奏で謡いつつ舞う歌舞劇。南北朝~室町時代に観阿弥・世阿弥親子が様式を確立、以来今日に至るまで脈々と演じ継がれ、現存する世界最古の演劇とも言われる。19世紀末より西洋でも紹介され、現代演劇の劇作家・演出家たちに大きな影響を与える。また観世寿夫・栄夫らの国内外の演劇人との積極的な交流の姿勢は、今なお受け継がれている。
エティエンヌ・ドゥクルー(1898-1991)
近代マイムの基礎を作り上げた20世紀フランス演劇界の巨匠。運動を精緻に分析し、メソッド(コーポリアルマイム)としてまとめ上げ、身体表現の新たな可能性を切り開いた。息子マクシミリアンと共に俳優教育に情熱を注ぎ、バロー、マルソーを筆頭に数多くの名優を育て上げた。
ジャン=ルイ・バロー(1910-1994)
映画『天井桟敷の人々』での名演技で知られる、フランスの俳優、演出家。妻マドレーヌ・ルノーと立ち上げたルノー=バロー劇団は、日本にも複数回来日している。国立オデオン座の支配人在任中は、自身の演劇活動の傍ら、国際演劇祭の先駆けである「諸国民演劇祭」の運営も担い、戦後フランス演劇を牽引した。
マルセル・マルソー(1923-2007)
「沈黙の詩人」と称されたフランスのアーティスト。精力的なツアー活動でパントマイムを世界中に普及させ、なかでもシルクハットに赤い花、白く塗った顔のキャラクター「ビップ」は、パントマイムの一般的なイメージを形作った。歌手マイケル・ジャクソンのムーンウォークは、マルソーの動きに想を得たと言われている。
土方巽(1928-1986)
西洋中心のダンス概念を覆した戦後日本発の身体表現「舞踏」の創始者。1959年、三島由紀夫の小説に想を得て、舞踏の嚆矢とされる「禁色」(共演:大野慶人)を発表。澁澤龍彦、瀧口修造、細江英公、横尾忠則、寺山修司といった同時代の文化人と活発に交流しながら、60〜70年代前衛芸術のをトップを走った。
大野一雄(1906-2010)
舞踏を世界に広めた伝説的ダンサー。1950年代末に土方巽と出会い、西洋の影響を強く受けたモダンダンスから、日本人の内面的な問題を扱う身体表現へと方向転換する。74 歳で海外デビュー、103歳で逝去するまで現役で踊り続け、ピナ・バウシュをはじめ名だたる芸術家たちに大きな影響を与えた。
「天井桟敷の人々」(1945年)
監督:マルセル・カルネ 脚本:ジャック・プレヴェール
フランス映画の金字塔的作品。ジャン=ルイ・バローが主役のパントマイム役者役で、バローの師エティエンヌ・ドゥクルーがその父親役で出演している。52年に日本で公開され、大野一雄、ヨネヤマママコ、劇団「天井桟敷」を主宰した寺山修司など、日本現代舞台芸術の精鋭たちに大きな衝撃を与えた。バローは一座を率いて60年に来日公演を実施。能楽師観世寿夫との親交が深く、77年の来日時には、狂言の野村万作を交えた三者で「鐘をつく」という演技を披露しあった。
出 演
※やむを得ない事情により出演者を変更する場合があります。変更に伴う払い戻しはいたしません。あらかじめご了承ください。
及川廣信(マイム)
アルトー館主宰、Scorpio Project(現after scorpio)代表、元日本マイム研究所所長。舞台芸術学院出身。1954~56年に渡仏し、エティエンヌ・ドゥクルー「エコール・ド・ムーブマン」、レオ・スターツ「コンセルヴァトワール・コレオグラフィック・ド・パリ」で学ぶ。帰国後は、舞台活動と並行して、ダンス、演劇、パントマイムの技法と東洋的身体の技法の比較研究および理論化を試みるとともに、ヒノエマタ・パフォーマンス・フェスティバル、東京アートセレブレーション等をプロデュース。
ヨネヤマママコ(パントマイム)
1935年山梨県身延町生まれ。幼少より石井漠門下の父よりバレエを習う。東京教育大学体育学部在学中に江口隆哉、大野一雄両氏に師事。54年、処女作「雪の夜に猫を捨てる」が評価され、NHKテレビ「私はパック」のパック役でデビュー。1960年に渡米し、大学・劇団でマイムを教えながら基礎メソッドを研究。72年に帰国し、ママコ・ザ・マイムスタジオを設立。ユニークな様々な作品を発表し続けながら、数多くの後進を育てる。92年、蘆原英了賞を受賞。
大野慶人(舞踏)
1938年、大野一雄の次男として東京に生まれる。59年、土方巽による舞踏の最初の作品「禁色」に出演。以後60年代の多くの土方作品に参加。69年、自身のソロ公演を機に舞台活動を退く。85年、大野一雄「死海」でカムバック。現在、大野一雄舞踏研究所所長。世界各国で公演、ワークショップを行う。近作に「花と鳥」(2013)、レクチャー・パフォーマンス「それはこのようなことだった」(2016)、アノーニとの共演による「たしかな心と眼」(2017)。
清水寛二(能)
能役者。1975年銕仙会(てっせんかい)に入門、故観世寿夫・故八世観世銕之丞らに師事。銕仙会・地照舎・響の会等で古典能を演じる。新作能作品に『一石仙人』『長崎の聖母』『沖縄残月記』など。佐藤信・小池博史・田中泯・Liu Xiaoyi ・Jadwiga Rodowiczらの演出作品にも参加。東京藝術大学非常勤講師。
tarinainania(コーポリアルマイム)
タリナイナニカ:巣山賢太郎|タニア・コーク
20世紀フランス演劇界の巨匠エティエンヌ・ドゥクルーが構築した役者の身体芸術〈コーポリアルマイム〉を専門とするシアターユニット。コーポリアルマイム特有の身体性に基づいた作品を発表すると共に、ワークショップやレッスンを通じてコーポリアルマイムの普及と発展を目的とした活動を展開している。
木檜朱実(地唄舞)
1993年より大野一雄、大野慶人、高井富子の元で舞踏を学ぶ。2002年よりコンテンポラリーダンスの黒沢美香&ダンサーズとして多くの作品に出演。現在は地唄舞の花崎三千花に師事する他、即興ダンスセッション〈ぞめき〉の運営、フリーのダンサーとして様々なアーチストと活動。
アクセスコーディネーター
高齢なアーティスト達のイベント参加をストレス無く実現するために、それぞれに一人ずつ、アクセスコーディネーターがついています。
■ 相良ゆみ:Eiko & Komaの薫陶を受け、舞踏家として活動。及川廣信に長年師事。
■ 明神勇郎米:マイムアーティスト。1980年代からヨネヤマママコに師事、内弟子となる。
■ 大野圭子:大野慶人次女。生活を共にしつつ、マネージメントを行う。
通常「アクセスコーディネーター」は、障害者のアクセシビリティを向上させる働きをします。本企画での「アクセスコーディネーター」は、アーティストと日常を共有し、細かいケアをしながら、移動などの生活上の物理的な動きを助けます。さらにまた、レジェンド達の記憶や身体表現を補い、伝える、芸術上のアシスタントとしての役割も担っています。
そのような「アクセスコーディネーター」は、高齢なアーティストの生活と芸術活動の維持にとって、必要不可欠な、重要な役割です。それぞれが不安定さを抱えていることを理解した上で、敢えてレジェンド達と観客の再会を企画するAll About Zeroを、最も善く特徴付ける、新しい役割と考えています。
「アクセスコーディネーター」という役回りは、社会の長寿命化に伴い、パフォーミングアーツの世界全体で、今後重要性を増していくのではないでしょうか。
演出・構成・映像
飯名尚人
映像作家、演出家、ドラマトゥルク、プロデューサー。
舞台とメディアのための組織 Dance and Media Japanを設立、メディアテクノロジーとダンスを中心に海外からの招聘プロジェクトを多数行う。2003年から「国際ダンス映画祭 Dance Film Festival Japan」を主宰。映像作家として、舞台作品の映像デザイン、ダンス映画の脚本、監督を多数手がける。また大野一雄舞踏研究所と共に『大野一雄ビデオアーカイブ』『洋舞インタビュー』のシステム構築、撮影、編集も手掛ける。東京造形大学准教授、京都精華大学非常勤講師、座・高円寺劇場創造アカデミー講師、NPO法人ダンスアーカイヴ構想理事。
制作統括:溝端俊夫
演出・映像インスタレーション:飯名尚人
リサーチャー:呉宮百合香
アクセスコーディネーター:相良ゆみ、明神勇郎米、大野圭子
舞台監督:呂師
舞台監督補佐:吉田尚弘
音響:國府田典明
衣装:大野悦子
チラシデザイン:北風総貴
WEB:飯名尚人
主催: NPO 法人ダンスアーカイヴ構想
共催:有限会社かんた
提携:シアターX カイ
協力:大野一雄舞踏研究所 土方巽アーカイヴ(慶應義塾大学アート・センター)
助成:アーツカウンシル東京(公益財団法人東京都歴史文化財団)
文化庁文化芸術振興費補助金(舞台芸術創造活動活性化事業)|独立行政法人日本芸術文化振興会