アナ・リタ・テオドーロ
1982年、ポルトガル生まれ。仏・アンジェ国立現代ダンスセンター (CNDC)およびパリ第8大学で、修士号 を取得。その傍ら、解剖学、古生物学、 哲学、気功等も学ぶ。舞踏に深い関心を寄せる。近作に、大野慶人のワークショップに参加した経 験に基づくレクチャーパフォーマンス 『Your teacher, please』(2018)、日本 のカワイイ文化から想を得た『FoFo』 (2019)などがある。
テキスト 溝端美奈
大野一雄舞踏研究所の稽古場は、横浜市郊外の丘の途上にある。階段を百段ほど上った右手にある白い平屋の建物がそれで、大野一雄が体育教師として勤めていた女学校から貰いうけた廃材を使い、1961年、自宅横につくられた。改修を経た今も、窓枠などは当時のままだ。
土方巽や細江英公、ピナ・バウシュ、ダニエル・シュミットなど数々の芸術家が訪れたこの稽古場は、大野一雄の代表作「ラ・アルヘンチーナ頌」を始め、様々な作品が生まれるのを見守ってきた。作品制作と共にこの稽古場がずっと見つめてきたのが、大野一雄と、その次男でやはり舞踏家の大野慶人による稽古である。年齢も国籍もダンス歴もいっさい問われることのないその稽古は、70年代には大野一雄により週2回、1983年からは週3回行われていた。90年代に入って大野慶人がそのうちの1回を担うようになり、大野一雄の衰えを得て2000年代には慶人が週3回を受け持ち、やがて2012年に再び週2回となった。海外ツアー等で留守の時を除き、大野慶人が2020年に亡くなるまでずっと続けられていた営みだ。
回数も含め参加要件なるものはないので、1回だけしか来ない人もいれば、長期にわたって参加する人もいる。海外からの参加者ばかりの日もあれば、赤ちゃんがいる日もある。時に3人だけだったり、時に30人以上いたりと、毎回顔ぶれが変わるのが常だった。参加者にはダンサーもいたが、写真家、教師、医者、俳優、詩人と、その生業もさまざまだった。大野一雄も大野慶人も大抵の場合はまずなにかしら話を始め、それから音楽をかけ、与えられたテーマで参加者が踊る。その踊りから触発されて言葉がさらに重ねられ、再び音楽がかけられ参加者が踊る、という流れだった。初期の大野一雄には黙ったままの稽古もあったというが、70年代後半ぐらいから概ねこのような形になったようだ。
自分の想いの丈を情熱的にほとばしらせ、「でたらめの限りを尽くしなさい」という大野一雄の稽古を見ていて、「もっと具体的に伝えないとわからないだろう」と慶人は常々感じていたという。自分が土方巽と大野一雄から学んだものを、どうすればわかるように伝えられるかを熟考し、バラの造花や真綿(絹の一種)、手拭いやティッシュペーパーなどを使うようになったと話していた。リアルな物体を用いることで体に実感させていくのだ。
アナ・リタは2008年、2015年、2016年に来日し、大野慶人の稽古に参加している。彼女も参加した2015年4月7日(火)の稽古の様子を追ってみよう。
稽古時間は大野一雄が教えていた時代と同じ20時から22時まで。この日の参加者は13人、初めて見学に来た人が2人、初めての参加者が3人。ベテランだろうが初めてだろうが、一緒に稽古するのが特徴だ。日本在住でない外国からの参加者は、ポルトガルからのアナ・リタに加え、シンガポール、オーストラリア、トルコ、ベルギーからで5人。海外からの参加者が多いので、英語のできる長く通っている者が通訳をする。この日、慶人が最初に話したのは、土方巽は「舞踏」をつくろうとしたわけではない、ということだった。自分の踊りを追求した結果、それが後に「舞踏」と呼ばれるようになったと。初めての参加者がいるときは特に、舞踏の歴史や特徴などを紹介してから始まることも多かった。
最初に与えられたテーマは「空間と出会う」。もっともこの日に限らず、この当時の稽古では、前口上の後に空間と出会う稽古から始める傾向が強かった。まずは「大野一雄舞踏研究所」という空間に出会う。特に決まった型があるわけではない。曲がかけられるので、皆思い思いに稽古場に出会ってみる。初めての人からは「もう何をしていいかわからない!」という叫びが聞こえてきそうなこともある。参加者が見落としている点が気になると、慶人が声掛けをする。この日は、「隅っこもありますよ」と言っていた。一曲終ると、「空間はつくるもの」だという話があり、今度は壁を越えて遠くの空間、遠くの国や足元にある国、上は宇宙ステーションまでと、広い空間に出会ってみる。「はい、やってみてください」と始まり、時に「はいっ」という合図で音楽を止めて踊りを中断し、さらに説明を加える。
この日は、わりと基本的なテーマが中心で、次には真綿を使って「からだと出会う」稽古が続いた。真綿の硬さ・柔らかさを実感することで、自分のからだが、硬さから柔らかさまですでに全て持っていることを体験する。
次に大野慶人が選んだのが、アナ・リタも触れていた「立て目をつくる」稽古だった。その日どんな稽古をするかは、参加者の顔ぶれや踊りにより変奏されていく。「立て目」をつくる稽古は、すなわち「からだをつくる」稽古で、それぞれが選んだバラの造花を手に持って、花は太陽へ向かって伸びていくこと、根は闇(地)に向かって伸びていくことを意識して(バラになって)歩き、体の軸―「立て目」をつくっていく。この稽古では「アメージング・グレース」がかけられることが多く、自分の舞踏は「祈り」だと言っていた慶人にとって、「歩くことは祈ること」だという想いも込められている。
ここまでで10曲ぐらいを踊っていて、終わりの時間も近い。この日の最後はティッシュペーパーを先生に、「繊細さ」を稽古した。参加者が柔らかな気持ちになって帰路につけるようにと、稽古の最後ではティッシュペーパーと共に「紙一重」を稽古することが多かったが、この日は「自分の中にある花をつくる」こととなった。ティッシュペーパーで花をつくりながら歩き、最後には、「世界のために祈る」ことを求められた。この日のように主要なテーマが4つというのはむしろ少ないほうだが、ひとつのテーマをじっくりと深めた日となった。濃密な踊りの後は暗転させて終わりをつくることがあったが、この日も最後は暗転で終わった。
10時を過ぎると、恒例のお茶の時間となる。大野一雄の頃から、稽古の後はお茶やお茶菓子、時に一雄自らがつくった三平汁などが出され、時間のある参加者はひとしきり歓談していた。2015年当時の大野慶人の定番は、駅のそばで買うお稲荷さん。他には、割れせんべいや鳩サブレがよく出されていた。ときどき参加者が踊りや歌を披露することもあれば、慶人自身が踊るということもあった。電車の時間を計算しながら、参加者は三々五々帰っていく。中には11時を過ぎても話し込んでいる者もいた。
こんな風に休みなく続けられた稽古で、大野慶人は自分が知っていることをすべて伝えたいのだと、惜しみなく与え続けた。稽古でまかれた種は今、世界のあちらこちらで花を開いている。
アナ・リタの映像の最後に出てくるのは、駅から稽古場へ向かう途中にあるトンネルだ。桜が散る季節には、入口あたりに上から降ってくる桜の花びらが舞い狂う。大野慶人が亡くなった後に白い光に変わってしまったトンネルは、かつては生れ直しの産道のようにオレンジ色の光を放って私達を待っていた。
プロフィール
溝端美奈
1996年に大野一雄舞踏研究所に通い始め、大野一雄・慶人の稽古に参加。子育て等で稽古から離れていた時期には、大野一雄舞踏研究所事務局スタッフとして書籍・DVD制作補助やアーカイヴ資料整理に従事。2013年からスタッフとして立ち合った大野慶人の稽古を記録、プレイベート・ワークショップでは通訳を務めた。
アナ・リタ・テオドロ「Your Teacher, Please」
映像提供 アナ・リタ・テオドロ
インタビュー通訳 本田 舞
インタビュー・撮影・編集 飯名尚人
字幕翻訳 溝端美奈