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横浜港を望む
横浜と大野ファミリー
大野一雄舞踏研究所は横浜にあり、大野ファミリーは横浜に住まってきた。大野一雄は横浜のミッションスクール関東学院と捜真女学院で長年教鞭をとっていた。息子の大野慶人は、生まれこそ東京だが、関東学院に学び、サッカー部を県大会準優勝に導いたこともある。舞踏家として世界各地で活動しながら、生活の基盤は常に横浜にあり、山下町のシルクセンターで長らくドラッグストアーを経営していた。映画にもなった横浜のメリーさんはその店のお得意さんだったそうだ。
横浜での舞踏家としても活動はもちろん数々ある。1986年に馬車道に関内ホールができたときは、こけら落とし公演として、代表作の「ラ・アルヘンチーナ頌」と「死海」を上演した。また、赤レンガ倉庫の保存活用を訴える官民の有志達と協働して、当時はまったくの廃墟だった巨大な倉庫を使い、数千人の観客を集める空前の舞踏公演「御殿、空を飛ぶ」を実現した。1990年代には市郊外にある瀟洒な劇場テアトルフォンテで、大野一雄全作品上演計画と銘打った連続公演を打っていたこともある。BankART1929で行っていた大野一雄フェスティバルも10数年間続いていた。
「横浜にはダンスが似合う」と大野慶人は言っていたが、大野ファミリーも横浜に似合っていそうだ。特別な思い入れがあったわけではないだろうが、横浜には生活者としてあちこちに細かな根を張り、多くの人との親密で自然な繋がりがあった。あまり知られていないことだが、大野慶人は、自らと妻悦子の恩人である大佛次郎氏の記念館を横浜に開設するため、市役所に新聞社にと日参し、汗水流して東奔西走した時期がある。その成果もあって、横浜市芸術文化振興財団の施設として大佛次郎記念館が港の見える丘公園に設立されている。記念館に併設されるカフェ霧笛は、大野慶人と悦子が大佛夫妻の遺産を守りながら、何十年も大切に経営してきた場所だ。今は長女の大野美加子が切り盛りしている。それにしても、雑誌によく紹介される横浜デートスポットのカフェのコーヒーを、大野慶人がいれていたなんてなんだか不思議な気がする。大野ファミリーの物語を通すと、少し違う景色の横浜が見えてきそうだ。
テキスト:溝端俊夫
撮影 飯名尚人
ロケーション 横浜港
テキスト 溝端俊夫